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仙台高等裁判所 昭和52年(ネ)303号 判決 1987年12月18日

控訴人兼附帯被控訴人(第一審被告、以下「控訴人」という。)

ソニーマグネプロダクツ株式会社

右代表者代表取締役

吉田進

右訴訟代理人弁護士

三島卓郎

馬場東作

福井忠孝

髙津幸一

板井一瓏

久保恭孝

田辺恒貞

被控訴人兼附帯控訴人(第一審原告、以下「被控訴人」という。)

長南サカエ

被控訴人兼附帯控訴人(第一審原告、以下「被控訴人」という。)

長南由美子

被控訴人兼附帯控訴人(第一審原告、以下「被控訴人」という。)

長南健一

右被控訴人健一未成年につき法定代理人親権者母

長南サカエ

右三名訴訟代理人弁護士

清藤恭雄

小林昶

松倉佳紀

小泉征一郎

主文

一  原判決中控訴人敗訴部分を取消す。

二  被控訴人らの請求をいずれも棄却する。

三  控訴人に対し、被控訴人長南サカエは金一二二四万五一六八円、同長南由美子、同長南健一は各金九七二万五九七三円及びそれぞれ右各金員に対する昭和五二年三月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

四  被控訴人らの本件附帯控訴(請求の拡張部分を含む。)を棄却する。

五  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  控訴人

(控訴の趣旨、原状回復申立の趣旨並びに附帯控訴の趣旨に対する答弁)

主文同旨

二  被控訴人ら

1  控訴の趣旨に対する答弁

本件控訴を棄却する。

2  原状回復申立の趣旨に対する答弁

本件申立を却下する。

3  附帯控訴の趣旨(当審で請求を拡張)

原判決を次の通り変更する。

控訴人は、被控訴人らに対し、各金二八七七万三六六八円及び右各金員に対する昭和四九年四月二四日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

4  控訴費用並びに附帯控訴費用は控訴人の負担とする。

5  第3項につき仮執行宣言

第二  当事者双方の主張及び証拠の関係は、左記のほかは原判決事実摘示及び当審記録中証拠関係目録記載のとおりであるからこれを引用する。

一  被控訴人ら

1  当審での請求拡張部分を含む損害に関する補足主張

別紙(一)「被控訴人らの損害に関する主張」記載のとおり。

2  控訴人の原状回復申立の原因事実に対する認否

(一)の事実は認める。

二  控訴人

1  被控訴人らの当審主張1に対する認否

争う。

2  民訴法一九八条二項に基づく原状回復申立の原因

(一) 昭和五二年三月一四日、仮執行宣言付きの原判決に基づき、控訴人から、被控訴人長南サカエは金一二二四万五一六八円、同長南由美子、同長南健一は各金九七二万五九七三円の給付をうけてこれを取得した。

(二) しかるに原判決は取消されるべきものであるから、控訴人は、民事訴訟法一九八条二項に基づき被控訴人らに対し、右の各取得金とこれに対する給付の翌日である昭和五二年三月一五日から支払済みまで民事法定利率である年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

理由

一長南褜吉が昭和四八年四月二〇日工員(有期雇用者)として控訴人に採用され、以後翌四九年二月八日ごろまでの間控訴人工場(宮城県多賀城市桜木三丁目所在)の磁気録音テープを製造するテープ部門製造第一課塗布工程に配属され、プラスチックフィルムに有機溶剤をを含む磁性塗料を塗布し、乾燥させる塗布装置機械(コーティングマシン)である七三Bコーター(以下「本件コーター」という。)の巻出部の係となり、その作業に従事していたこと(以下右作業を「本件作業」という。)、同人は同月一二日塩釜掖済会病院で急性肝炎と診断され翌日から同院に入院し、手当を受けていたが、同年四月二四日午後五時四五分頃死亡したこと、右死亡の直接原因が全身性クリプトコッカス感染症の罹患であること、そして、同人が右病院に入院した当時肝臓に障害(病変)を起こしていたことは当事者間に争いがない。

二褜吉の死亡原因に関する被控訴人らの主張

被控訴人らは、褜吉の死亡原因に関し次のとおり主張する。

(1)褜吉は本件作業に従事中、多量に、磁性塗料に含まれている人体に有毒な有機溶剤(メチルエチルケトン、メチルイソプチルケトン、トルエン、シクロヘキサノン、ジメチルホルムアミド、イソプロピルアルコール及びベンゼン。以下これらを一括して「本件有機溶剤」ということがある。)の蒸気を吸引しあるいはこれに曝された(肝障害を惹起する有機溶剤の曝露吸引)、(2)その結果、同人は肝(臓)障害(有機溶剤による中毒性肝障害)に罹患した(有機溶剤の曝露吸引と肝障害との因果関係)、(3)同人は昭和四九年二月一三日前記病院に入院して肝障害の治療を受けていたが、右疾患による全身衰弱のためクリプトコッカス(病原となる真菌の一種)感染症を誘発し、これが全身に感染したため死亡するに至つた(肝障害と死亡原因たる感染症との因果関係)ものであり、そして、褜吉が控訴人作業場で使用されていた有機溶剤によつて肝障害を惹起したと判断する医学的根拠は、

①同人は控訴人の本件コーター作業場において有機溶剤に曝露され、これを吸引していたこと、②同人は、右有機溶剤以外には肝障害の原因となりうる薬剤その他の中毒性物質を服用し、吸引し又はこれらに曝露されたことのなかつたことのほかに、③同人の死亡後、解剖病理学的検査を実施した東北大学医療技術短期大学部教授兼医学部病理学教室講師丹羽隆が右検査の結果同人の肝障害は有機溶剤によつて惹起された病変であると診断したことによる。

三丹羽教授の見解について

1  弁論の全趣旨によると、被控訴人らの、褜吉にかかる肝障害とその原因及び死亡に至る経緯についての医学的見地からの主張は、全面的に右丹羽教授(なおその一部は前記液済会病院において褜吉の診療に当つた中里武医師の原審における証言及び同人作成のカルテ等並びに丹羽教授作成の後記診断書二通による。)の見解に依拠すること明らかであるから、まず同教授の所見の当否について検討するが、右所見は原審並びに当審(第一、二回)における同教授の法廷における証言という形式において表明されているから、右証言が被控訴人ら主張事実の証拠として採用することができるか否かについて判断する。

(なお同教授が褜吉について右検査診断を担当するに至つた事情は、同教授の原審における証言によると以下のとおりであることが認められる。同教授は研修後東北大学医学部病理学教室に入り、同大学助手、助教授を経て、昭和四八年前記短期大学部の教授となり、兼ねて右病理学教室の非常勤講師となり、本件診断当時日本病理学会会員(評議員)であつたもので専門分野は肺循環である。ところで、病院等医療機関で治療を受けていた患者が原因が不明のままあるいはそれに不審が持たれて死亡した場合、右病院等では東北大学医学部附属病院病理部にその原因についての病理解剖学的診断を委託しうるシステムが設けられていたが、前記掖済会病院では褜吉の死亡原因に不審を抱き、死後直ちに同人につき右診断を委託し、右病理部において同部所属医師二名の執刀で解剖に付されて臓器等(検体)が保存され、次いで病理学教室講師の立場で病理部に関与していた丹羽教授が当番医として右検体に基づく病理学的診断を担当するに至つたものである。)

2  丹羽教授の証言は、原審並びに当審(第一、二回)を通じ被控訴人らの主張に全面的に添うものであるが、右証言によると、褜吉の肝障害が有機溶剤によるものであると断定したのは、要するに、①同人は本件作業場で有機溶剤に曝露され、これを吸引していたこと(臨床医からの報告)、②同人は有機溶剤以外には肝障害の原因となりうる薬剤その他の中毒性物質を服用し、吸引し若しくはこれに曝露した形跡がないこと(臨床医に対する問い合わせの結果)、そして病理学的所見として、③同人の肝細胞の壊死脱落が肝小葉中心部(中心静脈周辺)に限られていること(有機溶剤中毒による肝障害の積極的要件)、④有機溶剤中毒以外の原因によつて肝障害を起こしたと認められるような症状(病像)所見が全く認められなかつたこと(消去法的判断)、すなわち、(A)もし同人の肝障害がウイルスによる急性肝炎とするならば当然同人の肝臓に、炎症所見、即ち、肝細胞の脱落が肝小葉中心部だけでなく、その周辺部やグリソン鞘の部分にも起こること(グリソンと肝細胞間の実質の破壊がおこること)、残存肝細胞に配列の乱れがあること、類洞の内皮細胞、特にクッパー細胞が膨れていること、グリソン鞘の細胞浸潤がおこること、肝実質にも細胞浸潤がおこること、グリソン鞘周囲で肝管の増生がおこること、以上のごとき症状(病理組織学的病変)がみられなければならない筈であるのに、これらの所見が全くみられなかつたからウイルス性肝炎は否定できるし、また(B)アルコール性の肝硬変症の場合には、グリソン鞘からグリソン鞘へと結ぶような結合織の増生があり、その結合織の増生の一部から、具体的にはグリソン鞘から肝小葉中心部へ橋渡しをするような結合織の増生があるから、出来上つたアルコール性の肝硬変症は脂肪をもつた肝細胞が比較的小さな固まりとなつて肝臓の中に散らばつてくるのであるが、褜吉の肝臓にはこれが認められないから、アルコール性の肝硬変症であることも否定できる、さらに(C)肝癌については、まず癌細胞が出てくるのであるが、褜吉の肝臓には癌細胞はないから、肝癌であることも否定できるというものである(本件においては控訴人も右(B)及び(C)については異論を主張していない。)。

3  しかしながら、右丹羽証言をもつてしては未だ被控訴人らの前記主張事実を認めるのに十分とは断じがたい。その理由は以下のとおりである。

(一) 丹羽証言のうち、褜吉は有機溶剤によつて肝障害を惹起したとする所見の病理学的な見地からの積極的根拠は前記②③に記載したところに要約されるが、右丹羽所見が正当なものとして是認されるためには、褜吉の肝細胞の壊死脱落が肝小葉中心部に限られていたか否かの認定の前に、有機溶剤による肝障害に共通する特定(特別)の病理組織学上の変化があること、具体的には「有機溶剤によつて惹起される肝障害は肝小葉中心部の肝細胞の壊死脱落に限られる。」及び「肝小葉中心部に肝細胞の壊死脱落があるときは、その肝障害は有機溶剤中毒によるものである。」との病理学的診断命題が現代医学界の定説であることを要するが、丹羽所見は右定説の裏付けを欠き、右の如き見解が医学界の定説(肝病理学の常識)としては存在しないとする当審における鑑定人奥平雅彦の鑑定の結果及び証人奥平雅彦の証言に照らし右の如き前提となるべき定説の存在を肯認することはできない。もつとも成立に争いのない(以下医学文献で特に断らないものはすべて成立に争いのないものである。)甲第二〇号証(志方俊夫「中毒性および薬物性肝傷害」)には「肝小葉中心部壊死が化学薬品に対してもつもつとも普通な肝臓の反応である。」とか「多くの毒物または薬物は小葉中心部壊死を引き起す……(後略)」との記述が存するが、右記述のみによつては前記丹羽所見を裏付けるに足るものではなく、却つて、中心壊死は、「有機溶剤とは全く関係のない循環障害やウイルス性肝炎、種々なる伝染性中毒性疾患およびショック状態を伴う疾患、急性貧血症の場合でも起こり、またうつ血、貧血など、高度の酸素欠乏症の起るときにも中心壊死を起す」とされ(甲第一九号証、新病理各論Ⅴ肝の炎症、肝炎)、また急性ウイルス肝炎の場合にも「中等症においても早期の肝生検標本においては小葉中心部の帯状壊死がみられる場合がある。」(甲第六九号証、高橋忠雄編集「肝炎のすべて」内科シリーズ13号所収)といわれ、さらにまた、有機溶剤による肝障害の場合でも、中心壊死をおこすものと周辺壊死をおこすものとがあることも指摘され、「四塩化炭素では中心壊死が、クロロホルム、allyl formateでは周辺壊死がおこる。」といわれる(甲第一九号証前掲)。

しかも丹羽教授自身においても、当審の昭和五七年七月一六日の証人尋問の際には、控訴代理人の「(前略)ただ中心静脈の付近の肝細胞の壊死脱落があるということだけでは、まずそれが何によるものであるかということはすぐは決め手にはならない。そういうことですね。」との質問に対し、「なりません。」と答え、前記証言内容と首尾一貫しないものがある。

(二)  次に丹羽所見のうち前記2の④(有機溶剤による障害以外の原因によるものと考えられないこと)についてみるに、なるほど前掲甲第二〇号証(志方俊夫論文)には、「(化学薬品による)小葉中心部壊死は程度が強くなると、その壊死が中心部周辺部にまで及び、ついにはグリソン鞘のやや増生した小胆管以外の上皮性細胞が全く消失してしまう状態になる。この場合伝染性肝炎、血清肝炎などの急性肝炎壊死とことなるのは、小葉内またはグリソン鞘における間葉系細胞反応に乏しいことである。すなわち小葉内におけるクッパー星細胞の増生、グリソン鞘における細胞浸潤などは典型的なウイルス性肝炎の症例に比較するとはるかに少ない。」との記述があり、前掲甲第一九号証(新病理各論)には、その「Ⅴ、肝の炎症、肝炎」という項目で、「(前略)炎症反応は、(1)水腫、(2)クッパー細胞の動員、(3)焦点性炎症性細胞浸潤、(4)グリソン鞘の細胞浸潤、(5)胆管周囲炎、(6)胆管炎などから成り立つ。」との記述がある。右各記述によると丹羽証言のとおりウイルス性肝炎の場合には肝臓に炎症状態がみられるとされているが、奥平鑑定の結果によると褜吉の肝臓のグリソン鞘域には細胞浸潤のあることが認められるから、丹羽所見の炎症像が全くみられないとの証言は直ちには採用しがたく(ただし丹羽教授は当審第一回証言においてグリソン鞘域における細胞浸潤を認める旨改め、ただし右病変は肝障害後に発生したクリプトコッカス感染症によつて二次的に生じたものであると証言するが、その判断を裏付けるに足る根拠はない。)、しかも褜吉は急性肝炎の診断で前記病院に入院し、連日にわたり消炎作用を有するデカドロン、リンデロンなどのステロイドホルモン剤を服用したことは原審証人中里武の証言、<証拠>によつて認められ、そして成立に争いのない乙第四八号証(山村雄一外二名監修「肝臓」生涯教育シリーズ4)によれば、右ステロイドホルモン剤の投与によつて肝組織の炎症像は消退することが認められるから、丹羽教授が証言するごとく褜吉の肝に炎症像がなくまたこれが軽度のものであつたとしてもそのことのゆえをもつてウイルスによる肝炎を全く否定する根拠となりえないことは明らかである。

(三)  ところで、丹羽教授の原審における証言、<証拠>によると次の事実が認められる。

褜吉が死亡した昭和四九年四月二四日当日前記のごとく同人の死因に不審を抱いた塩釜掖済会病院から東北大学医学部附属病院宛同人の病理解剖学的検査の依頼がなされた。なお右掖済会病院の中里医師が右解剖学的検査を依頼するに当り提出した臨床プロトコルに記載の臨床診断は劇症肝炎(有機溶剤中毒性肝障害の疑)である。右附属病院病理部において医師二名の執刀で直ちに解剖に付され、翌二五日解剖された検体に基づき丹羽教授が肉眼によつて病理学的診断をなし、約二週間後にその結果を仮診断書として文書化した(右文書が前記甲第一六号証の二である。その原本の診断本文の部分は英文で記述されているが、同教授から提出された訳文は別紙(二)記載のとおりである。)。

その後、検体の組織標本の作成、顕微鏡検査等を経て昭和五〇年一月上旬組織標本の顕微鏡による検査の結論(本診断)が出され、その結果として本診断書が作成された(これが前記甲第四号証の一、二である。同号証の一の本文部分は英文で、同号証の二はその訳文で別紙(三)記載のとおりである。)。

以上の事実によると丹羽教授は仮診断の段階では褜吉の肝障害は有機溶剤によるものではなく、これ以外の急性肝炎であると診断し(ただし、同教授は仮診断の段階において肉眼的にみても肝小葉中心部のうつ血、出血が認められていて有機溶剤によることが明らかである旨証言し、右仮診断書の記載との間に整合性を欠くがその点はさておく。)、その後八か月を経過した時点において肝病変の原因が有機溶剤によるものであるとの本診断書、即ち右の仮診断の結論を変更する旨の本診断書が作成されたことが明らかであるが、掖済会病院からの検査依頼の趣旨、本件のごとき症例が東北大医学部関係においてははじめてのケースであること、また診断の結論において極めて重大な変更をしたにしては、本診断書の記述は仮診断書の記述に比べ必ずしも詳細なものではなく(ちなみに右仮診断と本診断とを比較すると、前者の表題部の「肝炎後肝臓瘢痕」とあるのが後部では「有機溶剤による肝傷害」と改められ、前者の解剖学的所見の欄(1)の一行目の「肝炎後肝臓瘢痕形成」が後者では「肝の瘢痕形成」と改められ、前者の二行目の「及び著名な脂肪変性」の部分が削除され、同(2)全身性クリプトコッカス感染症の項については前者の「(h)出血性扁桃炎」が後者では「(h)著明な甲状腺浸潤」と改められ、前者に記載のあつた「(8)コロイド欠乏を伴つた甲状腺のびまん性腫大」が後者では削除され、前者の「(9)著名な声門浮腫と食道の褥創性潰瘍を伴つた気管内挿管の跡」が後者では「(9)著名な声門浮腫と食道潰瘍」と改められ、最後に前者では記載のなかつた「組織学的所見」が後者で付加されているにすぎないことが明らかである。)、弁論の全趣旨によつて成立を認める乙第二号証(東京慈恵会医科大学名誉教授高橋忠雄作成の「鑑定書」と題する書面)で同教授の「病理解剖に基づく診断書(本診断)には、肝臓以外の臓器については、組織学的所見(顕微鏡による検査所見)が全く示されていない。ことに恐らくは死因のもつとも主要なものと考えられる髄膜炎、肺炎等について全く記載がないのは、いかなる理由か、理解に苦しむ点である。」との指摘を待つまでもなく、学説、文献、報告症例等の対比を通じて十分な検討のもとに本診断ないしは当公判廷における証言がなされたか疑問であり、右各診断書及び同証言をみると、丹羽教授の所見は、臨床医師からの、褜吉は入院前職場で多量の有機溶剤を吸収していたとの報告に比重を置いたうえで前記のごとき結論を示したものとみられる可能性が濃厚であるといわざるをえない(なお当審における第二回丹羽証言及び同証言により原本の存在と成立の認められる甲第五五号証によると、丹羽教授は、宮城労働基準局長からの依頼に基づき昭和五〇年九月一三日同局長宛褜吉に関する意見書を提出したが、同書には「――本症の場合(クリプトコッカス)の二次感染のおそれがあつてもステロイド投与は絶対(必要)でありこれがクリプトコッカス感染症を招来したと考えられる。」との記載があり、丹羽教授は本診断(甲第四号証の一、二)を下した後相当の期間を経過した時点においても褜吉のクリプトコッカス感染症が肝障害から直接招来(誘発)されたものではなく、掖済会病院におけるステロイド投与が誘発原因であつたと考えていたことが窺われ、ステロイド投与とクリプトコッカス感染症との因果関係を否定する当審第一、二回証言との整合性あるいは一貫性に疑いが持たれるところであり、そもそも褜吉がいつクリプトコッカスに感染したのかその時期についてもその証言にあいまいなものがあり、当然検討の対象となるべき肝障害の発生の時期とクリプトコッカスの感染の時期の前後関係の問題についても十分な検討がなされないまま断定していることが窺われる。)。

もとより医学はすべて経験科学であり、病状の認定あるいは病因の診断等は総合的な所見から、場合によつてはデータに乏しくあるいはデータがあつてもこれに依らず直観的な判断を下す必要がありまたそうせざるをえない場合があることは否定できないが(殊に臨床医学がそうであろう。)、しかし本件のごとく病因に重大な疑問があり、かつその究明のために解剖までなされている場合にはできる限り経験的な直観を避け、検体及び症例報告例等のデータに基づき検討することが必要であることは否定できない。

(四)  ところで有機溶剤(化学上は有機溶媒、有機溶剤は工業上の名称である。)は溶質を溶解させるために用いる有機素(炭素化合物)の薬剤であるが、その揮発性のために容易に蒸気として拡散しその脂肪性のため皮膚、粘膜障害や麻酔作用などの中枢神経障害を起こすことがあるが、その他その種類によつては末梢神経障害(ノルマル・ヘキサンなど)、造血器障害(芳香族炭化水素類)、肝障害(塩化炭化水素類。その代表的なものとして四塩化炭素がある。)その他腎障害などが起こることがあるとされるため一般的抽象的には有機溶剤が人体(健康)に有害とされているが、一口に有機溶剤といつてもそれには四〜五〇〇種類以上あり(そのうち労働安全衛生の見地から五四種が労働安全衛生法及び同法施行令の規定に基づく有機溶剤中毒予防規則《昭和四七年労働省令第三六号》の規制対象となつている。)、人体に対する有毒性を持つとされるものについてもそれぞれ特有の性質があり、そのすべてが肝臓に対する毒性(肝毒性)を有するとは限らず、また肝毒性を有するものでもその肝臓に対する作用あるいは形態学的特徴は必ずしも一様ではないといわれている(成立に争いのない甲第一九ないし第三一号証、第六一ないし第六七号証、第六九号証等の各医学文献参照。特に甲第二四号証《左右田礼典「有機溶剤の有害性」化学と工業所収》及び甲第二九号証《池田正之「有機溶剤中毒」医学のあゆみ八七巻九号所収。なお右池田論文は奥平鑑定書四八頁に引用。》には有害な有機溶剤の種類と各人体器管に対する有毒作用の一覧表が示されている。)。もとより有機溶剤等毒物を直接嚥下するなどしてその成分が器管に留まつているなどその診断が容易である場合は別として(本件がそのような事例でないことは丹羽証言によつても明らかである。)、そうでない場合には、前掲志方論文(甲第二〇号証)は、一つの化学物質が肝臓に直接障害を与えていると断定するためには、①その物質に相応する組織学的変化が引き起されていること②投与量に比例して重い病変がおこること③中毒量が投与されればすべての人に病変がおこること④動物実験により再現が可能なこと⑤投与された時期と病変の発現に密接な関係のあることの各事実が必要であるとの見解を示し、また奥平鑑定書に引用されているG・クラッキンによると、肝細胞毒による肝障害の特徴的なことは、①大量に投与すればすべての人に発生する②肝障害の程度は肝臓毒の量と相関する③潜伏期はほぼ一定で短かい④実験動物に再現できる⑤肝臓毒の種類に対応して独特の組織変化を示す⑥肝臓のみならず他臓器(とくに腎臓)にも障害をおこすことが多いとされ、更に、労働省通達昭五一・一・三〇基発一二二号による「有機溶剤中毒等の認定基準」においては、症状の発生について他の原因による疑いがあつて鑑定困難な場合には「症状が当該物質に曝露する業務に従事した後に発症したか否か、作業の経過とともに又は当該物質への曝露程度(気中濃度、曝露時間、皮膚接触程度等)の増大により症状が増悪したか否か、作業からの離脱により症状の改善がみられたか否か、同一職場で同一作業を行なう労働者に同様の症状の発生をみたか否か等を調査の上業務起因性を判断すべきである」とし、有機溶剤等化学物質(薬品)による中毒か否かの診断あるいは判断は慎重であることが必要であるとされているが、丹羽教授の本診断書及び同証言にはこれらの診断基準について特別の配慮がなされた形跡は認められず(丹羽教授の所見は包括的に有機溶剤ないし有毒な化学物質一般の曝露吸引を前提にして示されていること同証言から明らかである。)、診断の根拠の点でも不十分といわざるをえない。

(五)  以上の次第であつて丹羽証言及び前記診断書(仮・本二通)に示された丹羽教授の見解をもつてしては後記奥平鑑定との対比を待つまでもなく未だ被控訴人らの前記主張事実を認めるに十分ではないといわざるをえない(なお、褜吉の入院から死亡に至る経過《同人の臨床上の症状およびこれに対する治療担当医師のとつた措置等》については当裁判所も原審と同様の認定(原判決理由五項―原判決九八枚目表六行目から一〇〇枚目表末行まで)をするものであるからこれをここに引用するが、右認定事実も丹羽所見を裏付ける資料とはなりえない。)。

四丹羽所見以外にも被控訴人らの前記主張事実に添う趣旨の甲第五一号証(掖済会病院診療担当医師中里武の仙台労働基準監督署長宛の意見書)、第五二号証(国立仙台病院医師赤村惇三の同上意見書)、第五三号証(東北労災病院医師塩島正二の同上意見書)及び第五四号証(東北大学医学部衛生学教室教授池田正之の同上意見書)が存するが、右各意見書はいずれも褜吉の検体を病理学的に検査して作成されたものではなく、丹羽教授の所見を前提に褜吉の作業内容等から一応の推論をなし、あるいは肝障害の発生につき特に他に原因がなければとの前提を条件にした一応の意見にすぎず、被控訴人らの主張事実を裏付けるに足る証拠とはできない。

五次に被控訴人らは、一般論として、「訴訟は医学論争の場ではなく、訴訟上の因果関係の証明は自然科学的因果関係のそれとは次元が異なるのである。訴訟上の因果関係は、現実に発生した損害を何人が賠償すべきかを特定することを目的とするものであり、その限りで必要とされるものであるから、自然科学的因果関係が確立された場合にのみ法的因果関係を認定しうるというものではなく、自然科学的因果関係の全てについて解明する必要もないのである。このことは最高裁昭和五〇年一〇月二四日判決(民集二九巻九号一四一七頁)が、『一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することで足りる。』と判示していることによつて明らかである。」とし、本件においては左記の各事実が存し、これらの事実を総合勘案すれば、経験則上褜吉の肝障害は本件作業場における有機溶剤に起因したものであり、肝障害によつて体力の衰えているところに二次的にクリプトコッカスが発症し、これが全身に病巣を拡げ、遂に死亡に至つたと認定するのが相当であると主張する。すなわち、

①  褜吉は、本件発病によつて入院するまで身体に特段の異常のなかつたこと。

②  ドライヤー払拭作業や塗布装置洗浄作業において、顔をドライヤー内に入れたり、塗布装置に顔を近づけて作業を行つていたため、右作業に際し、有機溶剤蒸気を多量に曝露吸引していたものであること。

③  褜吉の勤務していた当時、本件作業場の職場環境も必ずしも良好なものでなかつたこと。

④  本件作業場で使用している有機溶剤のうち一部のものに肝毒性を有するものがあること。

⑤  本件以外の控訴人会社従業員に有機溶剤による肝機能有所見者が出ていること。

⑥  褜吉の肝障害と死亡原因に関する丹羽教授の見解も合理的で納得しうるものであること。

⑦  他に障害を起こすに足る原因があつたものとは認められないこと。

右主張事実のうち⑥については病理学、組織学的にその採用できないことはさきに判示のとおりであるが、この点をさておき右①ないし⑤の事実(⑦については後述)をもつて被控訴人の提示する推論が可能であるか否かについて判断する。

1  まず①の点についてみるに、当審における鑑定人奥平雅彦の鑑定の結果(鑑定書によるもの及び口頭によるもの)並びに証人奥平雅彦の証言によれば、

褜吉の肺門部リンパ節には、石灰化に伴なう硝子化病巣があり、その中にクリプトコッカスの増殖が認められ、このことからみて、褜吉におけるクリプトコッカス症は肺に初感染巣があつてこの感染の発生は死亡する一年以上前であると考えられ、したがつて褜吉は昭和四九年二月九日頃からの急性肝障害発生以前にすでに全身性クリプトコッカス症の部分現象として肝臓にクリプトコッカス病変が形成されていた可能性が強いことが認められ、前掲丹羽証言(原審及び当番を通じての)も右認定判断を左右するに足りない。

そうだとすれば、被控訴人らの主張する①の事実は認めることができず、その推論の前提とはなしがたいこと明らかである。

2  ②ないし④の点についてみるに、当裁判所も、本件作業場の構造及びその作業の内容の特殊性からみて、その濃度等が被控訴人らの主張するようなものといえないまでも、褜吉がその作業に従事中大なり小なり本件有機溶剤の蒸気を吸引しあるいはこれに曝されたであろうことは否定しえないものがあると認定するものであるが、その理由は原判決理由三項(原判決七七枚目裏末行から同九一枚目裏三行目まで)のとおりであるからこれを引用する。

しかしながら、右事実から直ちに褜吉が直接死因となるべき有機溶剤中毒症としての重篤の劇症肝炎に罹患したこと(本件記録によると、被控訴人らは本訴提起から昭和五一年四月二六日の原審第一〇回口頭弁論期日に至るまで褜吉の直接の死因は肝障害であると主張していたことが認められる。)はもとより、死亡原因となるような全身性クリプトコッカス感染症を誘発するような重篤な有機溶剤中毒症としての肝障害を惹起したことを推定することは相当ではなく、前記診断基準に関する志方見解(甲第二〇号証)及び奥平鑑定書に引用のG・クラッキン見解等に照らし(志方については③中毒量が投与されればすべての人に病変が起るとの要件、クラッキンについては①大量投与すればすべての人に発生するとの要件)、被控訴人らの主張する推論を充足するためには少なくとも褜吉が従事した作業と同一の作業に従事した他の従業員において同様の症状を示した事例が存することを要し、これがあつてはじめて、被控訴人らの主張する有機溶剤と褜吉の病変・死亡との因果関係の存在の推定が可能となるというべきである(被控訴人らの主張する⑤の事実。なお、当裁判所も原判決理由四項《原判決九一枚目裏四行目から九八枚目表五行目まで》と同一の理由により控訴人に有機溶剤使用関係についての労働安全衛生法令違反の事実の存したことを認定するものであり《右理由説示をここに引用する。》また原審証人降矢光正の証言によると、控訴会社及びその関係者は労働安全衛生法《同法施行令、有機溶剤中毒予防規則》違反の罪《本件コーターのドライヤー払拭作業におけるマスクの使用義務違反、特殊健康診断実施義務違反及び本件コーター付近におけるトルエンの測定義務違反》で起訴され、略式命令により罰金刑が言渡され、これに対する異議申立がなされないままこれが確定したことが認められるが、控訴人の右行政法規違反の事実から直ちに被控訴人らの主張事実を推定しえないことは多言を要しない。)。

3  被控訴人らは、控訴人工場では褜吉と同様、塗布工程作業において有機溶剤を取扱う作業を担当した従業員の中には有機溶剤によつて褜吉と同様の症状を示し、その中には死亡した者さえいた旨主張するので判断するに、被控訴人らの立証その他本件全証拠によつても右主張事実を認めるに足りない。もつとも、

(一) 当審証人石橋しげは、同人の長男石橋重信は、控訴会社に勤務し、昭和三四年頃、テープ製造工程に配属されていたこと、重信は、その頃、体調を悪くして入院し、同年一〇月五日、一九才で死亡したこと、右しげは、重信の死因について、塩釜市立病院の医師から、控訴会社のテープ製造工程で使用している有機溶剤のせいではないかと言われたこと、しげは、右重信の死後、重信が働いていた控訴会社のテープ製造工程の職場を見せてもらつたところ、極めて劣悪な環境であつたため右重信の死は控訴会社のテープ製造工程で使用していた有機溶剤の吸引曝露によることに確信を持つたこと、しかも控訴会社では、右重信の死因について、遺族が口外しないよう必死に口止め工作をした旨の証言をする。

しかしながら、右石橋しげ証言はこれを裏付ける的確な証拠はなく、弁論の全趣旨により成立を認める乙第二七号証及び当審証人降矢光正の証言に照らし直ちには採用できない。

(二) 次に当審証人遠藤けさよは、同人は昭和四一年一〇月から四七年一二月末まで、控訴会社に勤務し、その間同四三年から四七年春頃までテープ製造一課に配属されていたが昭和四六年頃、体調を悪くして仙台鉄道病院で診察をしてもらつたところその検査の結果、肝臓がおかしいと診断され、投薬を受けた旨供述するが、右証言をもつてしては未だ被控訴人らの主張事実を証するに足る証拠とはなしがたい。

(三) また<証拠>によると、昭和四九年五月及び一一月実施の有機溶剤取扱者特殊健康診断において控訴人の従業員のうち、有機溶剤取扱作業に従事する大熊猛、宮田清行(以上二名は五月)、伊藤久蔵、渡部ひろみ(以上二名は一一月)の四名が肝機能有所見者として指摘されているが、原審証人降矢光正の証言により成立を認める乙第二六号証(有機溶剤取扱者特殊健康診断を行つた医師が労働基準監督署の求めにより作成した報告書)によると、有機溶剤中毒予防規則に定める健康診断項目以外に、控訴人が独自に行つた肝機能検査として、黄疽指数、TTT、ZTT、GOT、GPTの五項目について検査をしたがその結果、右有所見者四名は、いずれも「臨床的には異常はなく」ただ「GOT、GPTの値が正常値よりわずかに高かつた」「GPTの値が正常値よりわずかに高かつた」「TTT値が弱陽性であつた」ということであり、発見率の有意差検定を行つた上で、有意差は認められないとして、「その肝機能異常者の発生率は一般検診者のそれと比較して特に高いとは思われない」との結論が示されていることが認められ、しかも右有所見が有機溶剤によるものとは指摘されておらず右因果関係を認めるに足る証拠はないから右甲第五七号証の記載をもつて被控訴人らの主張事実を認めるに足る証拠とはしがたく、却つて原審証人岩下克之、原、当審証人降矢光正の各証言によると、控訴会社は創立以来、本件褜吉の問題が発生するまでの二〇年間、磁気テープの製造を行い有機溶剤取扱作業従事者は約三〇〇名に達するがその間褜吉のごとき事例は皆無であつたこと(本件コーターでの塗布作業従事者一三名を含む。右一三名については特殊健康診断においても肝機能をはじめ他の点においても特段の指摘はされていないこと)が認められる。

4  以上のとおりであるから、病理学あるいは組織学的分析を除くその余の事由を根拠とする被控訴人らの主張も採用できない。

六奥平鑑定について

1  本件では当審に至つて控訴人から褜吉の肝臓に存する障害の発生原因等につき専門家による鑑定の申請がなされ、これに基づき北里大学医学部教授奥平雅彦が右鑑定をした。同教授の鑑定(文書及び口頭の双方)及び証人奥平雅彦の証言(なお以下に奥平鑑定というときは右証言を含む。)及び弁論の全趣旨によると、同教授は本件鑑定当時、日本病理学会、日本肝臓学会及び日本医真菌学会の各会員(いずれも評議員)であつたことが認められる。

2 奥平鑑定は、東北大学病院病理部に保存されている褜吉の臓器(検体)一式当裁判所の指定した資料に基づき解剖病理、形態学的見地からなされたが、奥平鑑定によると、褜吉の肝障害及び死亡原因についての同教授の見解の要旨は次のとおりである。

① 褜吉の肝病変は、病理形態学的に悪急性肝萎縮といわれる変化と一致する。

② 肝の広範懐死部には、クリプトコッカスによる変化が認められる。しかも、このクリプトコッカス病変には、時日の経過した病変と比較的短時日の間に発生した病変とが混在してみられる。

③ 肺門部リンパ節には石灰化を伴う硝子化病巣があり、その中にクリプトコッカスが増殖していることから、褜吉のクリプトコッカス症は肺に初感染巣があり、その感染の発生は、死亡の可成り以前(恐らくは年の単位で以前)である。

④ 全身の諸臓器に、数週〜数ケ月の経過で形成されたとみられるクリプトコッカスの肉芽腫性病変と、数日〜数週の経過で形成されたとみられるクリプトコッカスの膠様病変が形成されているが、このクリプトコッカス症は、その病巣の分布程度からみて致命的な重症感染症である。

⑤a 同種作業者に褜吉と同程度に強い肝障害が発生していないこと

b 有機溶剤による肝障害はその原因を除いた場合には速やかに回復するとされているにも拘わらず、褜吉の場合は有機溶剤の曝露から離脱した入院後、肝庇護療法が行われたにも拘らず、肝障害が増悪していること

c 問題の有機溶剤は肝毒性のほか、腎毒性や血液毒性を有するから、もし、それが原因なら当然に、腎障害や造血障害を発生するはずであるが、褜吉の腎には顕著な障害は発生しておらず、骨髄の造血はよく保たれていて造血障害が発生しているとは認められないこと

d 褜吉の中心静脈周辺の出血壊死像は急性の変化であるが、広く身体全体を検査した場合、他の部分、例えば、腹水がたまつており、両下肢に強い皮下水腫があり、両側の胸腔に胸水がたまつていて、心臓にもクリプトコッカスによる心筋炎があり、肺にも可成り広範囲なクリプトコッカスによる肺炎があることなどから、これは末期における心不全に基因するものと理解するのが適当であること、

以上がみられ、これらを総合してみると、褜吉の肝障害が本件作業場で使用された有機溶剤に基因するものであると判断することはできない。

⑥ 肝障害の発生原因としてウイルスを否定してしまうこともできない。

⑦ 褜吉の肝病変は、全身性クリプトコッカス症の病変分布と多彩な病理組織学的所見からみて、クリプトコッカス症に基因すると考えられる。褜吉の肝障害の発生とその重篤性はクリプトコッカス症と密接不可分の関係にある。

⑧ 褜吉は、昭和四九年二月九日頃からの急性肝障害の発生以前にクリプトコッカス症に感染しており、その全身播種の部分現象としての肝クリプトコッカス病変が発生しており、潜在的に存在したクリプトコッカス性肝病変の急性増悪によつて、自覚的、臨床的に病変が認識されたものである。そして、末期的クリプトコッカス症の増悪と広範な全身播種は、全身状態の悪化、臨床医である中里医師の用いたステロイドホルモン使用と関係がある。

3 右見解は、一般に認められている知見や文献の裏付けを経ながら、詳細かつ緻密に、あらゆる可能性を想定しながら逐一検討を加えて結論に達したものであつて、右判定過程に格別不自然、不合理であると目されるものは見当らず(奥平鑑定を批判する丹羽教授の当審における証言《第一、二回》は右鑑定の結果を左右するに足りない。)、当裁判所としてはこれを合理的であり、納得のいく判断であると考える。

七以上のとおり、被控訴人らの主張する請求原因事実のうち、「褜吉は、控訴会社において、劣悪な作業環境のもとで多量の有機溶剤に曝露され、或いはこれを吸引したために重篤な肝障害を患い、その治療中クリプトコッカスに感染し、死亡するに至つたものである。」との事実はこれを認めることができないから被控訴人らの請求はその余の点を判断するまでもなく失当というべきである。

そして、控訴人が主張するように、被控訴人らが仮執行宣言付原判決に基づき控訴人から金員の給付を受けた事実は当事者間に争いがないから民訴法一九八条二項に基づく控訴人の原状回復の申立は理由がある。

八よつて原判決中被控訴人らの請求を認容した部分は相当ではないからこれを取消して被控訴人らの請求を棄却し、被控訴人らに対し原状回復を命じ、被控訴人らの本件附帯控訴は理由がないからこれを棄却することとし、民訴法三八六条、三八四条、一九八条二項、九六条、八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官伊藤和男 裁判官岩井康倶 裁判官清水次郎は退官のため署名押印できない。裁判長裁判官伊藤和男)

別紙(一)被控訴人らの損害に関する主張(当審における昭和六一年四月二三日付準備書面)

(はじめに)

亡褜吉の受けた損害額を算定するうえで、一番の問題は、褜吉が控訴会社から支給されていた給与のあまりに低額なことである。それは全国水準をはるかに下回る低賃金である。褜吉は有期雇用者と称される臨時工として、五カ月、六カ月、一カ月と期間を限定して雇用され、その期間は総合計でも一二カ月間であつた。しかも最後の一カ月の満了(昭和四九年四月一九日、それは褜吉が死亡する五日前である)をもつて雇用関係の終了(解雇)を控訴会社は主張しているのである。このように短期間雇用された際の低賃金を基準として褜吉の一生の逸失利益を算定することが妥当か否かとの問題である。

被控訴人らは、原審においては、右考慮から現実に支給された賃金額を基準とせず賃金センサスによる全国平均の賃金額を基準として逸失利益を主張した。しかし、死亡直前まで就労していた場合には現実の給与を基準とすべきであるとの原判決を受けて、被控訴人らは控訴審においては、控訴会社における現実の賃金額を基準として逸失利益を算出してきた。本準備書面においては、まず第一として、この算定方法により主張する。

しかしながら、控訴会社に短期間(一二カ月間)雇用されていたからといつて、褜吉の一生の逸失利益を算定するのに控訴会社の低賃金を基準とすることには、やはり大きな疑問がある。

そこで本準備書面においては、第二として、控訴会社において有期雇用者が〇となる昭和五三年までは、控訴会社が有期雇用者に現実に支払つてきた賃金額を基準とし、それ以降は賃金センサスによる全国平均値を基準として、褜吉の逸失利益を算定する方法を新たに主張する。

右の第一と第二の算定方法は選択的に主張するものである。

更に本準備書面において、第三として、ベースアップ・昇給について論ずる。

第一 損害計算について

一 昭和四九年五月から同五三年四月までの逸失利益

この期間に控訴会社において有期雇用者が現実に支給されていた毎月の賃金額は別表1の(A)のとおりであり、その間の一時金の額は別表1の(B)のとおりである。右の月収額から生活費として四分の一を控除し、これに一時金を加算した年収額は別表1の(C)の通りであり、この年収から新ホフマン係数により中間利息を控除して算出した褜吉死亡時の現在額は別表2の昭和五二年度までの現在価のとおりである。

二 昭和五三年五月以降の逸失利益

(一) ベースアップ・昇給率

(1) 被控訴人らは、褜吉の逸失利益を算出するにあたつて、昭和五三年四月までの分については、前述のとおり控訴会社における褜吉と同種の有期の雇用者に対する支給額実績によつたが、昭和五三年五月から満六〇歳(昭和七三年五月一日)の定年(就業規則五〇条)までについては、昭和五三年四月の支給額を基にして昭和五三年度分(同年五月から昭和五四年四月までの分)を計算し、以後は毎年九%の賃金上昇率を五年目ごとに考慮して逸失利益を推計した。

(2) ところで、右の被控訴人らの計算方式は、毎年九%の賃金上昇を主張しているものではなく、(計算の便宜上)五年間は同一賃金に据え置き、六年目において年九%の上昇率で新賃金を定め、それをまた五年間据え置くという計算方式である(別表3記載のとおり)。

これを毎年の賃金の平均上昇率に換算すると、別表4(賃金上昇率計算書)のとおり年7.38%の上昇率となる。即ち、被控訴人らは、前年比毎年7.38%の賃金の上昇を主張しているものである。

(3) 控訴会社における昭和四五年から同五二年七月までの間の有期雇用者の賃金の推移は別表1(A)のとおりであり、その賃金の平均上昇率は16.64%である(別表5参照)。従つてこの平均上昇率の半分以下である年7.38%という上昇率を設定することは、十分に蓋然性の高い妥当な数値である。

(二) 一時金支給率

控訴会社では昭和五三年二月で有期雇用者はいなくなり、残つていた有期雇用者は退職した者を除いて全員が正規社員となつたのであるから、昭和五三年以降の一時金(賞与)の額を推定するのに、それまでの正規社員に対する一時金支給率を参考とすることは十分に根拠のあることである。

正規社員の昭和四七年から同五二年までの一時金の支給給月数は別表6のとおりであり、その平均支給月数は8.81カ月分となつている。右の支給月数は一カ月一六六時間勤務した場合の月収に対する倍率であり、褜吉の場合月二〇〇時間勤務が通常だつたのであるから、その場合の現実の月収に対する一時金の倍率は約7.6カ月となる。従つて昭和五三年以降も少なくとも年間七カ月分の一時金は支給されていたと推定することは合理性のあることである。

(三) 慰労金

控訴会社においては、昭和五三年をもつて有期で採用されている社員は〇となり、残つていた有期雇用者は全員正規の社員として採用された。

褜吉も死亡していなければ、昭和五三年四月をもつて有期社員としての勤務を終り、五月からは正規社員として勤務したであろうと推測される。

有期雇用者が正規社員となる場合には、一旦有期社員としての退職扱いとなり、その際慰労金(有期社員退職金)が支給される(有期雇用者就業規則第四〇条)。慰労金は退職時の作業給(時間給)の二五日分に一定の支給率を乗じて算出する(慰労金規則第二、三条)。

褜吉は昭和五三年四月には少なくとも一時間五〇五円の時間給を支給されていたはずであり、昭和四八年四月二〇日入社して同五三年四月末日までの勤続年数は五年(但し最初の雇用期間は五カ月間)で、支給率は1.7となるから、慰労金額は一六〇、九六八円となる。

これを昭和五三年四月末日に支払われるものとすると、その昭和四九年四月二四日における現在額は一三四、一三四円となる。(別表7慰労金計算書参照)。

(四) 退職金

別表8の退職金計算書記載のとおりその昭和四九年四月二四日の現在額は金二、三〇六、四四六円である。

三 損害額の計算

(昭和四九年四月二四日現在額)

(1) 逸失利益

金五七、八三八、九七七円

(内訳)

賃金 五五、三九八、三九七円

慰労金 一三四、一三四円

退職金 二、三〇六、四四六円

(2) 被控訴人らの相続

各自金一九、二七九、六五九円

(3) 慰謝料

各自 金七、〇〇〇、〇〇〇円

(4) 弁護士費用

各自 金二、〇〇〇、〇〇〇円

(5) 請求額

合計 金八四、八三八、九七七円

各自 金二八、二七九、六五九円

第二 賃金センサスによる逸失利益の算定

一 原判決の不当性

原判決は褜吉の逸失利益を算定するについて、死亡直前の現実の給与額を基準にすべきであるとした。しかしこのような算定方法があてはまるのは、その職業を将来においても継続したであろうと考えられる蓋然性が高いことが前提要件である。

ところが褜吉の場合は、控訴会社においては有期雇用者という名称の臨時工として、賃金は極度に低く、職業環境は死に至るほどの劣悪さであり、身分保障も薄く、到底生涯にわたる職場であるなどと言える状況ではなかつた。他方褜吉は電気工事関係の特殊技能を有し、また大型自動車一種免許も取得していたのであり、将来他の職業に転職した可能性は極めて高かつたのである。

褜吉は控訴会社に最初は五カ月間雇用され、次に六か月、最後に一カ月雇用され、全部でも一二カ月の有期雇用者であつた。この短期間雇用されたときの低賃金をもつて一生涯の逸失利益を算定することは明らかに不当である。

しかも控訴会社では昭和四九年七月以降有期雇用者の新規採用をやめ、それまでに残つていた有期雇用者はその後正規社員として期限の定めなく雇用されるか退社するかに分かれ、昭和五三年には遂に有期雇用者は〇となつた。

このような事実経過をみても、原判決のごとく、褜吉が有期雇用者として在職中の賃金をもつて褜吉の一生の逸失利益を算定することが不合理であることは明らかである。しかし正規社員の給与をどこまで基準にできるかにも問題はある。

そこで被控訴人らは、控訴会社において有期雇用者が〇となる昭和五三年までは、控訴会社が有期雇用者に現実に支払つてきた賃金額を基準とし、それ以降は賃金センサスによる全国平均値によつて褜吉の逸失利益を算定することを主張する。

二 褜吉の逸失利益

右により褜吉の逸失利益額を計算すると別表9逸失利益計算書のとおりとなり、その金額は五九、八七〇、四〇三円となる。

右計算書の昭和四九年度から同五二年度までは、控訴会社における有期雇用者への現実の支給額によつたものであり、別表1、2と同一数値である。

昭和五三年度から同五九年度(昭和五三年五月から同六〇年四月)までは、各年度ごとの賃金センサスの「第一表 年齢階級別きまつて支給する現金給与額、所定内給与額及び年間賞与その他特別給与額」の「産業計・企業規模計・男子労働者・新高卒」の対する年齢における支給額に基づいた。

昭和六〇年度から、褜吉が満六七歳を満了する昭和八〇年度までは、昭和五九年度賃金センサスにおける対応する年齢別の支給額に基づいた。

三 損害額の計算

(昭和四九年四月二四日現在額)

(1) 逸失利益 五九、八七〇、四〇三円

(2) 被控訴人らの相続

各自 一九、九五六、八〇一円

(3) 慰謝料

各自 七、〇〇〇、〇〇〇円

(4) 弁護士費用

各自 二、〇〇〇、〇〇〇円

(5) 請求額

合計 八六、八七〇、四〇三円

各自 二八、九五六、八〇一円

(6) 一部請求

右(5)の請求金額を、従来の請求額である各自金二八、七七三、六六八円の限度で、一部を請求するものとする。

第三 ベースアップ・昇給

(一) 被控訴人らは、原審において、ベースアップならびに昇給を考慮して、賃金センサスをもとに年齢ごとの賃金支給額を主張したにもかかわらず、原判決は、具体的主張立証がないとして一切のベースアップ・昇給を認めず、褜吉の死亡直前の賃金に固定して逸失利益を計算した。原判決自身も「労働者の賃金が毎年若干上昇することは通常である」と認めているのであり、右の計算方法が不当であることは明らかである。

(二) 賃金の上昇には一般に昇給とベースアップがある。(例えば、七号俸から六号俸に上がるのが昇給であり、同じ七号俸でその金額が上がるのがベースアップである)。本準備書面第一の場合は、控訴会社における過去の支給実績を基に賃金を定めた。そこにおける賃金上昇は昇給かベースアップか必ずしも明らかではない。有期従業員に関しては、控訴会社において昇給基準が整備されていない点からすると、多くはベースアップであると思われる。しかし、アシスタント契約の更新回数により時間給が異なるような場合には昇給にあたる。従つて、前記賃金上昇の実績は、ベースアップを主として昇給も含んでいるものと考えられる。

別表1〜9<省略>

別紙(二)病理解剖学的診断(仮診断)

肝炎後肝臓瘢痕

全身性クリプトコッカス症

(1) 肝左葉及び右葉3分の1に特に著明な肝炎後肝臓瘢痕形成。肝実質出血及び著明な脂肪変性。肝には高度の黄疸なし。極く軽度の全身性黄疸。

(2) 全身性クリプトコッカス感染症

a くも膜の混濁性肥厚を伴なう広汎なクリプトコッカス髄膜炎。著明な脳腫脹。

b 右肺下葉の鶏卵大空洞形成性肉芽腫性病巣。両側肺各葉の示指頭大迄の肉芽腫多発。右肺下葉に著明な浮腫性出血性肺炎。

c 傍皮質部髄質に特に著明に発生する多発性粟粒大膠様肉芽腫性腎病巣。両側腎の限局性壊死巣。

d 全身リンパ節広汎性膠様壊死性破壊。

e 多発性骨破壊性脊椎骨病巣。

f 多発性壊死性肝病巣。

g 十二指腸ファーター乳頭部膠様性壊死。

h 出血性扁桃炎。

(3) 著明な広汎性胃腸管壁の浮腫と壁内出血胆嚢壁浮腫。

(4) 十二指腸近位部の半径0.5cm深い急性潰瘍形成。

(5) 著明な脾腫脹。

(6) 著明な副腎皮質のリポイド減少。

(7) 軽度結節性前立腺肥大

(8) コロイド欠乏を伴つた甲状腺のびまん性腫大。

(9) 著明な声門浮腫と食道の褥創性潰瘍を伴つた気管内挿管の跡。

別紙(三)病理解剖学的診断(本診断)

有機溶剤による肝傷害

全身性クリプトコッカス感染症

(1) 肝左葉及び右葉1/3に特に著明な肝の瘢痕形成。肝実質出血。肝には高度の黄疸なし。極く軽度の全身性黄疸。

(2) 全身性クリプトコッカス感染症。

a) くも膜の混濁性肥厚を伴なう広汎なクリプトコッカス髄膜炎。著明な脳腫脹。

b) 右肺下葉の鶏卵大空洞形成性肉芽腫性病巣。両側肺各葉の示指頭大迄の肉芽腫多発。右肺下葉に著明な浮腫性出血性肺炎。

c) 傍皮質部髄質に特に著明に発生する多発性粟粒大膠様肉芽腫性腎病巣。両側腎の限局性壊死巣。

d) 全身リンパ節広汎性膠様壊死性破壊。

e) 多発性骨破壊性脊椎骨病巣。

f) 多発性壊死性肝病巣。

g) 十二指腸ファーター乳頭部膠様性壊死。

h) 著明な甲状腺浸潤。

(3) 著明な広汎性胃腸管壁の浮腫と壁内出血。胆嚢壁浮腫。

(4) 十二指腸近位部の直径0.5cm。深い急性潰瘍形成。

(5) 著明な脾腫脹。

(6) 著明な副腎皮質のリポイド減少。

(7) 軽度結節性前立腺肥大。

(8) 著明な声門浮腫と食道潰瘍。

組織学的所見:

大小の巾を示す肝実質脱落巣の不規則な形成とその部の著明な出血。クリプトコッカス感染部を除く傷害肝には炎症性細胞浸潤なし。肝毛細胆管のわずかな胆汁栓。著明な肝突質の脂肪変性なし。肝内門腺部及び門腺周辺部の胆管増殖なし。

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